「前座失格!?」読了

 以前ネット購入した「前座失格!?」読了。著者は元柳家小多けこと、藤原周壱氏。何だろう、痛々しさと痛ましさが同居した不思議な本。小多けといえば、最近では三三師匠の前座名というイメージが強いが、もともとは「小たけ」で、小三治師匠の前座名。

 痛々しい部分は、愛憎どちらもむき出しにして文章をしたためている著者が、弟子入りしていた当時の小三治師匠の言葉を一言一句額面通りに受け取って、その実包含された真情をまるで理解していないところ。もっともこれは、一連の流れを、文章という客観視するには効率的な媒体で把握することが出来た第三者だから気軽に言えることなんだろう。当時の著者は相当に精神的に追い詰められていたはずだし、まだまだ若かっただろうし、求めすぎるのは酷というもの。小三治師匠に落ち度があるなら、おそらくそのあたり。

 中国の四大奇書の一つ、西遊記の中に、主人公の悟空が、最初の道術の師匠にぶたれる時に、ぶち方と数からその真意を正確に読み取って弟子として認められるくだりがあるが、小三治師匠の場合も、似たような感じで試練を課していたんだろうなという印象を受けた。やや手法が過剰で過激とはいえ、真意を汲み取れた者は残り、そうでない者は去った。

 部外者が、そのあたりの齟齬の原因を身勝手に考察することが許されるのであれば、隠喩にしても直喩にしても、比喩という手法では物事を正しく理解することが生理学的にできない、人間関係に軋轢を生じやすい発達障碍が存在するが、そのあたりがカギになりそう。断っておくが私の勝手な推察。もっとも、この著者がということに限らず、過去に噺家に弟子入りし、挫折をした相当数の人の中に、その種の生得的な特質があり、そのせいで師匠の真意を正しく理解することが出来ずに苦しんだというケースがもし存在するのであれば、気の毒というより他はない。

 痛ましいと感じたのは、そのあたりと、著者がいまだに落語好きであるということ。ただ落語を聴くのが好きなだけでなく、演じるということをあきらめられず、そのままならないフラストレーションをかつての師匠の言動に投影することで留飲を下げる一助としているのであれば、弟子入りに年齢制限のない立川流か圓楽党に入門するか、あるいは天狗連で落語を演じるべき。そもそも噺家の知り合いがいるんだから、今から連絡を取って、先輩にでも、後輩にでも、謝礼を持参して稽古をつけてもらって、デイサービスやデイケアに慰問に行けばいい。まあ、今は新型コロナで受け入れてもらえないだろうけど。身内の介護に区切りがついた後、四十過ぎで、編み物だのマクラメだのおりがみ陶芸だの鹿島錦だの、好奇心のおもむくままに手当たり次第にいろいろ始めた私に言わせれば、何をやるにも遅きに失するということはない。八十になろうが、九十になろうが、手元不如意でどうしようもないというのでなければ、好きなことに取り組まなければ、一度きりの人生を無駄にしてしまう。

 著者は私より年上で、人生経験が豊富なのも確かなんだから、私なんぞが書くのはおこがましいのはわかっているが、あえて「一日も早く落語を演じる生活に戻るべし」と、声をかけてあげたい。これまでの懊悩を無駄にしたくないのであれば、書くよりもまず、落語を演じるべき。そこにしか答えがないのは、著者本人にもわかっているはず。本にしたのは迂遠に過ぎる。