物事の見方が表層的すぎやしませんか

 毎年夏になると、高校時代、私ととある秘密を共有した教師が自死したことを、とりわけ色濃く思い出す。当時の同級生には、彼の行為の裏側にあった懊悩を推測できる人は皆無といってよく、薄弱な根拠で憶測を並べ立てたことに対して、どれだけ苛立ちを覚えたかわからない。私が見る限り、多くの同級生や教師が、彼の選択の意味を過不足なく理解することが出来ずにいて、その事実には心底幻滅した。彼がいなくなってから、私は、教室で学ぶことを、意図的に放棄した。

「感染した人は悪くない」という擁護論に関しても、似たような印象を抱かざるを得ない。感染したという事実により、個人の人格や社会的立場を全否定するのは違うと思うし、投石などの差別は当然あってはならないわけだが、多くの人は、感染したから攻撃しているのではなく、感染に至るまでの経緯が軽率な場合が多いから苦々しく思っているわけよ。そこをはき違えて「擁護出来る自分って人間として一段上だし」みたいな居丈高な態度を取られても。

 私のように持病があったり、自身が高齢だったり、ケアワーカーだったりする人たちが、危機感に追い立てられ、どれだけ心を砕いて、我慢をして、感染を防ごうと尽力しているか。一線の医療関係者は言わずもがな。それは、置かれている立場上、努力するのが当然だからしているわけではあるけれど、周囲の人間が、そういう尽力を後目に、やれカラオケだキャバクラだと遊びに興じ、その結果感染したとしたら、それだけで、こちらの生命の重みをないがしろにされている気がしてならない。だからイライラする。文句の一つもつけたくなる。

 よく差別語・侮蔑語の使用を指摘されると、「言葉狩り」という表現をして逃げの姿勢を見せる人がいるけれど、実際に狩っているのは言葉ではない。その種の言葉を安易に使う人間の意識の方。それと同じこと。感染を攻撃しているのではない。感染を招いた、あるいは拡大した行為を責めているだけ。

 責めるのが果たして対処法として適切かどうかはまた別問題だが、私ならミュージックソーを股に挟んで「おーまーえーはーあーほーかー」と鳴らすくらいはしてみたい。以上。


 N先生のことを考えない日は、亡くなられてから、一日もない。自死されてから、今月末で三十年。今では忘れてしまっている同級生も多いと思う。全員が同じ年齢を生きると仮定したら、多分、最後まで覚えているのは、私ということになるんだろう。