ミス・サイゴン 25周年記念公演

 インフルで寝込んでいた時から、一カ月が過ぎたらしい。割れそうになるくらい痛む頭で、Prime Videoで100円レンタルされていた「キャッツ」と「ミス・サイゴン」をカートに入れたんだが、なかなか観る機会がなくて放置していたら、赤字で警告が出ていた。午後四時頃までに視聴開始しないと100円が無駄になるということで、昼休みに「ぱぱらーぱー ぱぱらぱぱー」というBGMの流れる冒頭部だけ再生して、一時停止。夜に織り台に向かい、二段織ったところで眠くなり、仮眠をとった後、改めて視聴。

 戦争という手段を用いながら、アメリカがその歴史上唯一勝てなかった相手であるベトコン。 ミス・サイゴンは、ベトナム戦争における サイゴン陥落前後の数年間を描いたロンドンミュージカル。至る所でアメリカに対するシニカルな表現があるが、私と同年代以上の人ならおそらく知っているベトちゃんドクちゃんを始め、枯葉剤の後遺症に苦しむ多くの子ども達や、戦争遺児を放置してきたという経緯もあるから、それは仕方ない。共産化したばかりの現地の政情が救済のための介入を許さなかったとはいえ。もっとも私の場合は「命をあげよう」聴きたさに気楽にクリックしたわけなんだが、やはりいろいろと考えさせられた。以下ネタバレ注意。

 それにしても、この舞台の陰の主役って、やっぱり女衒のエンジニアである説に一票。国民のほとんどが貧困に苦しむ国で、何とかしてアメリカ行きを目指してのしあがろうとあがくエンジニアの姿に、いささか短絡的な解釈だとは思うが、博愛を根底においている(はずの)キリスト教的な価値観とは相いれない、混とんとしたアジア的バイタリティを強く感じた。

 翻り、表の主役である、嗚呼、キム。子どものために、かつての許嫁を殺した主人公のキムにとっての免罪符となったのは、同じく子どものために、自分の夫と心に決めたクリスを待つということ。そのクリスが決して自分のところには戻らないことを受け入れた時、同時に、封印してきた罪も受け入れざるを得なくなる。子どもの未来を拓かんと、父親に引き取らせる代償に、キムは許嫁の亡霊と不即不離である過去の罪を一身に背負う覚悟を決め、サイゴンでクリスに渡された銃で、自ら命を絶つ。許嫁を殺したのと同じ銃。許嫁を殺した時に、同時に彼女は自分の過去と心を殺した。エンジニアと命からがらベトナムを抜け出してたどり着いたバンコクでは、クリスと、彼の妻エレンに半ば強制的に子どもを託すために、今度は体と未来を殺した。これも多分、おそらくは西洋的な価値観や倫理観とは相いれないと考えられがちなアジア的な解決法。もちろんその思考形態が歴史的な事実として頑として存在しているというより、ベースとなった蝶々夫人を含め、あくまでも演出上の、制作サイドが考えるわかりやすいアジア的雰囲気の悲劇としての印象を受けるんだけど、そこを踏まえた上で、私としては、純粋で不器用すぎるキムよりも、不純であってもしたたかなエンジニアの方に肩入れしてしまう。その分、歳を重ねたということなんだろう。多分精神的な若さにあふれていたら、エンジニアはクズ、キムは気の毒の一点張りになりそうな。

 キムにはクリスと、彼との子どものタムがいたし、戦争で亡くなった両親にも愛されていた。反面、エンジニアには、愛する人も、愛してくれる人もいなかったし、到底まっとうとは言えない子ども時代を過ごしてきた。それでも生きることをあきらめず――むしろ執着心を隠さず、時には恥を受け入れ、時には他者を踏み台にして、必死に夢にぶら下がっていた。理想大事で自ら不幸を受け入れるキムの姿は、とうの昔に人生に擦れてしまった私には、いささか眩しすぎる。

 何はともあれ良い作品だったと余韻に浸りたいのに、「キム」と入力しようとすると、勝手に「金」と変換されるので、例の黒電話がアオザイを着て「命をあげよー」と歌っている姿が脳裏をよぎって台無し。嗚呼、台無し。